お庭拝見
私が訪ねたお客様のお庭や古民家のお庭、町屋の中庭、由緒ある社寺などのお庭を御紹介します。
お客様のお宅に伺いますと、仕事上、床の間のあるお座敷へ通して頂きます。
廊下を歩く途中での中庭や、客座から見るお庭はそれぞれとても趣があります。
最今注目されています古民家のお庭や、普段は入って見ることの出来ないお寺のお庭など少しづつですが皆様にご紹介いたします。
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いよいよ今春からスタートするNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」。
原案本著者は安来市大塚町出身で、漫画家水木しげるさんの妻である武良布枝さんです。
奥様の生家である安来市大塚町のお庭を拝見しました。
原案本著者は安来市大塚町出身で、漫画家水木しげるさんの妻である武良布枝さんです。
奥様の生家である安来市大塚町のお庭を拝見しました。
秋が深まり紅葉が綺麗な城安寺・庫裡の内庭をご紹介します。
この庭園は雪舟うつしの庭園と言われ、築庭の妙手であった南禅寺の別院、法泉寺の住職虎山桂洲が構築したもので、その幽玄な林泉は、近郷稀に見るものであったと言われています。
この庭園は雪舟うつしの庭園と言われ、築庭の妙手であった南禅寺の別院、法泉寺の住職虎山桂洲が構築したもので、その幽玄な林泉は、近郷稀に見るものであったと言われています。
2009年11月29日
今回は、安来市広瀬町、臨済宗南禅寺派の城安寺、本堂前庭のご紹介です。
雲龍山城安寺は、九代広瀬藩主直諒公の菩提寺でもある由緒あるお寺です。
城安寺 縁起(略)
安来市広瀬町富田にある臨済宗南禅寺派別格地の寺院。山号は雲龍山。
正和年間(1312〜1316年:鎌倉末)に古愚和尚が創建、のち南禅寺から南禅寺を創建した南院国師の弟子、源翁全帰和尚を招いて開山とした。
その後、江戸時代までの史実はつまびらかではない。
1600年(慶長5年)堀尾吉晴が出雲国主として広瀬富田城に入ると、浜松から春龍和尚を拝請し当山の住職とし、城安寺は堀尾氏の菩提寺となった。
1611年(慶長16年)、堀尾吉晴が松江に移城する際、城安寺もともに移転したが、およそ50年後、即宗元覚和尚の代に再び広瀬に寺を移した。間もなく、分封された広瀬藩松平氏の菩提寺となり、元覚和尚は中興の祖となった。当山の山門は、九代藩主松平直諒公の寄進による。
その後明治に入り、二十一世梅嶺和尚は傑出した禅僧で、南禅寺派の初代管長となった。明治期は、火災や水害で多難であったが、梅嶺和尚らの活躍で見事に復興し現在に至り、今は二十六世浩道和尚が継承している。
本尊は聖観世音菩薩、両脇仏の広目天立像・多聞天立像は共に重要文化財。書院庭園は雪舟うつしの庭園といわれ、幽玄な林泉は見る人を魅了する。寺宝として他に堀江友聲筆尼子十勇士像、富田城絵図などを所蔵する。
雲龍山城安寺は、九代広瀬藩主直諒公の菩提寺でもある由緒あるお寺です。
城安寺 縁起(略)
安来市広瀬町富田にある臨済宗南禅寺派別格地の寺院。山号は雲龍山。
正和年間(1312〜1316年:鎌倉末)に古愚和尚が創建、のち南禅寺から南禅寺を創建した南院国師の弟子、源翁全帰和尚を招いて開山とした。
その後、江戸時代までの史実はつまびらかではない。
1600年(慶長5年)堀尾吉晴が出雲国主として広瀬富田城に入ると、浜松から春龍和尚を拝請し当山の住職とし、城安寺は堀尾氏の菩提寺となった。
1611年(慶長16年)、堀尾吉晴が松江に移城する際、城安寺もともに移転したが、およそ50年後、即宗元覚和尚の代に再び広瀬に寺を移した。間もなく、分封された広瀬藩松平氏の菩提寺となり、元覚和尚は中興の祖となった。当山の山門は、九代藩主松平直諒公の寄進による。
その後明治に入り、二十一世梅嶺和尚は傑出した禅僧で、南禅寺派の初代管長となった。明治期は、火災や水害で多難であったが、梅嶺和尚らの活躍で見事に復興し現在に至り、今は二十六世浩道和尚が継承している。
本尊は聖観世音菩薩、両脇仏の広目天立像・多聞天立像は共に重要文化財。書院庭園は雪舟うつしの庭園といわれ、幽玄な林泉は見る人を魅了する。寺宝として他に堀江友聲筆尼子十勇士像、富田城絵図などを所蔵する。
2009年9月15日